「良い子だ」

 何で、そんな台詞を口にするのだろう。
 自分は子供じゃないし、……仮に子供だとしても、別に良い子ではないと思う。
 神様に目を背けるような事をする子供が、良い子な訳が無い。

 反論はしない。ただ、口にしない疑問だけが胸の内に有る。

「……ラガルト?」

 ヒースはゆっくりと手を伸ばし、ラガルトの秀でた額に触れる。
 少し低い体温、普段髪を纏めている布は既に取り払われているから、さらさらとした銀糸のような髪が広がっていて、下になっているヒースの身体へと降り注ぐようだった。

「どうした、ヒース?」

「ん……何でもない」

 多分、本当は何でもないなんてことは無いのだ。
 とはいえ、其れを一体なんという言葉で表すべきなのかが、ヒースには分からない。
 蟠りがあるとか、しこりがあるとか、そういう訳ではないけれど。
 何だろうこの、言いようの無い代物は。

 心の上を滑り、染み込むような素振りを見せながらも、何処か少しだけ離れた空間に浮いているような、そんな感触。

 触れている部分。互いの体温の差に、少しだけ似ている気がした。

「……ふうん。
 まあ、お前さんがそういうのなら、こっちはそれで良いけど」

 ラガルトの指先が、ヒースの唇に触れる。
 唇に指を一本立てる其れは、喋らなくていいと、そういう合図を告げる時の仕草だろうか。

 知りたいとか近付きたいとか、割と頻繁にそういう素振りを見せる癖して、決して、深い所にまでは触れて来ようとしない。
 多分、からかわれているだけなんじゃないかなと、ヒースとしては、そう言う風に思うときも多いけれど。
 時々、ほんの少しだけ、其れだけでは無いような気もして……けれども、理由なんて分かるわけも無い。

 唇に当てられていた指が、軽く浮き上がり、合わせ目になっている部分をそっとなぞっていく。
 白く細い指先。仕事柄も合ってか、器用に動く其れは決して白魚のようなと、そんな風に例えられる物ではないだろうけれど。
 其れでも、綺麗だと、そう思う。

 その指が、そっと唇を割って入ってくる。
 ヒースは其れに逆らわず、唇を開いて其れを受け入れる。

「……良い子だよな、お前は」

 ラガルトが笑うのが聞こえたけれど、ヒースは何も言い返さない。
 其れは指を舐めている舌を休めていないからでもあるし、返す言葉を持たないからでもある。

 どちらの方が重きを置くべき所なのかは、其れはヒース自身にもよく分からない。

 ただ、余り考えないようにしている。
 気になることは多いけれど、気にしても、何か得られるものがあるわけでは無いから。

 此処で交わされる、僅かな熱の交換。
 きっと其れだけが、互いに与えられる事の出来るすべて。

 指先が充分に湿られたことを確認するようにしながら、ラガルトは其の指を引き抜く。
 もう片方の手で軽くヒースの頭を叩いた其の仕草も、柔らかく浮かんだ微笑も、何だか子供を誉める大人の姿のようだ。
 ヒースの方が当初感じていた反発も、今は既に無い。

 こういうのはきっとラガルトの癖みたいな物で、気にしても仕方がないのだと。
 そう気づいたから、出来るだけ何も言わないようにしている。とはいえ、何時でもそんな態度が保てるという訳ではないけれど。

「あっ……」

 指先が秘所に触れる、其の瞬間の感触を表す言葉を、未だヒースは持ち得ない。
 快楽とも違うし、かといって不快だと感じるわけでもない。
 ただ、この先に続く出来事を思えば、其れを拒否する理由は無いと。

 そんな風に感じる自分は可笑しいのだと、心の何処かが告げた気がするけれど。
 其れでも別に構わないと、そう思って押し込めてしまう。

 表情を隠すのは、余り上手くは無いのだ。
 だからきっと、彼には全て見破られている。
 慣らされているとも思える姿も、其れを疑問に思う部分があることも、そして其れらを、隠そうとしているということも。

 けれどラガルトは、何も追求しない。
 普段の会話に出るような気軽なからかいの言葉を、彼が行為の最中にしなくなったのは何時からだろうか。

 ヒースは其れを、覚えていない。

 ラガルトは笑う。
 彼は楽しいことがあるときにはよく笑う人だし、そうでないときも笑っているように見える。
 ただ、其の笑いが乾ききった物であると感じ始めたのは、何時のことだっただろうか。

 そしてその笑い方は、こんなときでも変わらない。

 柔らかく、けれどやはり何処か乾いた笑みを浮かべながら、ラガルトはヒースの秘所の周りをゆっくりと弄っていく。
 其の手つきは優しく、多分、何一つ急いては居ないのだろう。

「んっ……」

 声が勝手に口から漏れていく。
 口唇が口唇を塞いで来て、続く声を封じ込まれてしまう。
 合わせ目から舌が差し込まれ、自らの舌を絡め取られる。
 自分から何かをするということは未だによく分からないけれど、其れでも自然と、絡んできた舌をなぞる程度のことは出来てしまう。

 其の間も、秘所に触れられた方の指は休んではいない。
 奇妙な感覚、研ぎ澄まされた其れではないけれど、鈍い物を少しずつ引きずり出されていくような。
 ……悪くは無いのだと、段々考えることを放棄し始めた頭で感じ取る。

 ラガルトが口唇を離し、僅かに目を細める。
 えっと、そう思った瞬間に、指先が中へと侵入して来た。

 彼が如何いう風に此方を導こうとしてるのか、其れは何時も分かるようで分からない。

「あ……つっ……」

「……良い子だから、少し我慢してくれよ」

 痛みか不快感か、僅かに身体が撥ねそうになるのを、空いている方の手で肩を抑えられて押し留められる。

「ん……」

 ヒースが軽い首の上下だけで頷けば、安心したようにラガルトは笑うのだ。
 会話と気を引くための仕草、其れから他の部分に触れることで、幾つかの事実を誤魔化そうとしていること。
 上手いのだなと、今ならそう思う。

 入り込んできた指が、内壁をほぐすようにして、内側の粘膜へと触れていく。
 狭い空間で動く指の動きを敏感に感じ取ってしまうのは、慣らされてしまったからなのだろうか。
 一旦中に入ってきた後であれば、其れほど痛みを感じることもない。。
 いや、寧ろ其の逆か。
 されることに悦びを覚え、其処から先を望む自分が居ること。
 触られてない筈の中心が、勝手に熱を抱いているのが分かる。

 すっと、ヒースは自分から手を伸ばし、ラガルトの肩を抱き寄せる。
 不意を衝けた筈は無い、彼は驚いた素振りなんて見せてはくれないから。
 ただ仕方ないなと言う風に笑って、其の手を振り払わないだけだ。

 距離が近付いても、する側もされる側も何も変わらない。
 ヒースが何事か呟いたところで、ラガルトから返ってくる言葉の種類はそう多くない。
 そうした返答の何割かが、ヒース自身には分からないことだけれども。
 其れが嫌だとは、今は感じない。

 分からない言葉でもいい、意味なんか無くていい。
 ただ、彼の言葉を聞いていたい。
 そんな風に思う自分に驚きつつも、今はもう否定しない。
 否定することが無意味だということくらいは、もう知ってしまったから。

 最中にぼんやりと違うことを考えてしまうようになったのは、何時からだろうか。
 気づけば中を探る指の数が増やされ、もう大分解されてしまっている。

 熱に浮かされながらの思考は、辿りつくということを知らない。
 本当は、何も考えずに、溺れられたら良いのに。

「……ヒース?」

 手を止めないまま、ラガルトの視線がヒースの方を覗き込んでいる。
 薄く淡い色の瞳が、宵闇の中で微かに煌いている。

「……」

「何だか、別のこと考えてたって感じかね……。
 ……まあ、他の奴のことをって訳じゃ無さそうだが」

「……そんなに器用なつもりはない」

「ま、そりゃそうだ」

 半ば冗談めいて不貞腐れたように言い返せば、彼は軽く笑い返してくれる。
 遠くを見たままの彼が、少しだけ近くに来てくれるような。
 錯覚かも知れない。
 けれど、そうであればと、願うように。

「……もし、俺が他の人のことを考えていたら、あんたはどうするんだ?」

 こんなこと、最中に尋ねることではないだろう。
 けれど尋ねても、彼ならば嫌がりはしないだろうと。
 そう思ったのは、一種の甘えなのか。

「お前さんにそれは出来ないな」

「……言い切れるんだな」

「まあね。
 そのくらいには、お前さんのことを知っているつもりだよ」

 ラガルトはそう言って笑ってから、ヒースの中に入れた二本の指をそっと引き抜く。
 其の瞬間に感じる思いの名前を、ヒースは知らない。
 けれど知らなくても良い、この続きを、与えてくれるならば、と。

 ラガルトは笑みを消さないまま、ヒースの足を持ち上げて、そのまま中へと自分の中心を押し当てていく。

「良い子だよ、お前さんは」

 何度目だろう、其の言葉は。
 良い子だと、自身をそんな風に思えたことは、過去に遡ってみても殆ど無いというのに。

 痛みは余り感じないけれど、慣らされていても全てが大丈夫という訳では無いから、僅かに感じる違和感。
 遠からず快楽の底に沈められると知っていても、其の感覚を好きになれるものではない。
 けれど、何かを感じていることはつまり、思考を取り払ってくれるものだから。
 ……其れで良いのだと、自分を納得させることは出来る。

「ん……」

「ヒース」

 名前を呼ばれ、勝手に逃げそうになった身体を、両手で腰を掴まえられることで押し留められる。

「ラガルト……」

「良い子だから……逃げるなって。
 ちゃんと、気持ちよくさせてやるからさ」

「……」

 身体が勝手に動いただけで、別に、ヒース自身は逃げたいわけでは無いのだ。
 見も心の投げ打ってなんてことは出来ないけれども、今このときだけは、ラガルトの手の中で良い。
 他の場所へ、行きたいとは思わない。

 身を任せてしまえば、楽なものだと。
 そう最初に言われたのは、もう随分前のことのような気がする。
 本当はそんな筈は無くて、あれから過ぎた時間は、ほんの僅かだと言うのに。
 それだけ密度の濃い時間を、彼が与えてくれたという事なのだろうか。

 分からない、何も。
 知らないから、本当は。

 沸いては散りゆき、消えてはまた戻り。
 答えなど何一つ無いまま、貫かれる痛みが快楽へと変わっていく。

 捨てられない物が多すぎて、背負った物が確かにあって。
 其のまま進めなくなることを、きっと何より恐れているから。
 だから、このまま時を止めて欲しいなどとは、思わないけれども。

 其れでも今は、溺れて居たい。溺れさせて欲しい。
 闇の底から這い上がってくるような熱で、全てを覆い尽くして……。

「ヒース……良い子だよ、お前さんは」

 霞みがかったように思考が途切れても、其の声だけは届いている。
 不思議だなと感じるよりも先に、安堵を覚えて。

 良い子だと、ラガルトは繰り返す。
 彼が其の言葉を使う意味も、理由も、ヒースには分からない。
 分からない、けれど。
 其れが嫌だとは思わないし、……何より彼が言う言葉なら、きっと何でも良いから。

 意味も答えも、何もいらない。
 たどり着く場所なんて、無くて良い。
 ただ、其の言葉を……その声を、聞いていたいだけだから。
 そんな風に思いながら、ヒースの思考は闇の中へと溶けていった……。

 

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